HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲1 Herz

3 熱海にて


「よろしかったら、どうぞ」
母が二人にお茶とお菓子を勧めた。
「どうも」
飴井は礼を言うと、出された日本茶を一口飲んだ。
「僕はさっき、お父さんに許可もらいました」
ハンスが言った。
「えっ?」
飴井が驚いてそちらを見ると、ハンスは黙って梅の花の菓子を楊枝の先で突いている。

「それは……本当ですか?」
父に確認を求めるように訊いた。ハンスの言葉は俄かには信じられなかったからだ。美樹の父親はそちらの筋に詳しい人物だ。その父が彼の素性を見抜けない筈がない。しかも大事な一人娘の将来が懸かっているのだ。ましてや彼女は心に傷を持っている。両親にとっても次は慎重にならざるを得ない。それなのに、身元の怪しいハンスのことをあっさり認めるなどとは考え難かった。しかし、父は軽く頷くと言った。
「二人の決意は変わらないようなのでね。様子を見ることにしたんだ」
それを聞いて飴井は肩を落としたが、川本は身を乗り出して言った。

「様子を見るってことは、まだこいつにもチャンスがあるってことですよね?」
ちらと飴井を見て父に迫る。
「まあな」
父が曖昧に頷く。
「あり得ません!」
ハンスが強い口調で抗議した。
「何でだよ?」
川本が食い下がる。

「言ったでしょう? 彼女は僕が好きなんだ。他の誰にも渡さない」
「そんなの滅茶苦茶だろ? 第一、おまえは一年前、こいつに彼女を託すと言ったそうじゃないか。そのあと、いや、その前から彼女のことを心配し、ずっと気遣って来たのは進なんだぞ」
「よせよ、一平。今更そんなこと言ったって見苦しいだけだ」
飴井が止める。
「でも……」
気が収まらない川本は先程から一言もない美樹に視線を投げ掛けた。
「……ごめんなさい。今は何も答えられそうにないの」
彼女が俯く。

「答えられないって……。本当にわかっているのか? こいつは……」
更に詰め寄ろうとする川本。その横顔に朝陽が当たる。
「彼女は何もかもを承知しているですよ」
さり気ない口調でハンスが言った。
「なのに、それ以上、何を言うつもりですか?」
一瞬だけテレビの画面が乱れ、ノイズが混じった。
「よくないですよ、君にとっても……」
そこに流れる風に揺れる樹木。降り注ぐ光。微笑するハンス。そこには何の影もなかった。が、何故か川本は背筋に冷水が伝わるのを感じた。

「一平、もういいだろう? 彼女だって困ってるじゃないか。それにご両親だって……」
見かねたように飴井が言った。
「ああ。そうだな。俺だって、せっかくこれまで育んで来た3人の友情をこんなことで失くしたくはないさ」
「3人? これからは4人になるですよ。そうでしょう?」
ハンスが笑って手を差し出す。
「まあ……な」
川本は納得行かなそうな表情を浮かべながらも、その手を握り返した。
「僕達、同じ道の仲間ですからね」
ハンスは笑んだ。

「仲直りしたんなら、お菓子も召し上がってね」
母が勧める。二人は軽く頭を下げると、それぞれの皿に手を伸ばした。
「僕、このお花のお菓子大好きです。甘くてとってもおいしい!」
ハンスが笑って言う。
「じゃあ、もっと食べるか? 他にもいろいろあるぞ」
父が言った。
「こっちの栗鹿の子もおいしいわよ」
母が皿に取ってやった。
「はい。いただきます」
ハンスがうれしそうに食べているのを見ると、父も笑って言った。

「ほう。甘い物が好きなのか?」
「はい。ココアにもお砂糖入れます」
それを聞いて父はますますうれしそうな顔をした。
「お父さんってば、自分が甘党なものだから、味方ができたと思ってうれしいのね」
美樹は母と顔を見合わせて笑った。父は聞こえない振りをしていたが、その表情から剣呑な雰囲気は消えていた。
「ところでハンス、あなた年は幾つなの? 随分若そうに見えるけど……」
母が訊いた。
「美樹ちゃんより一つ上です」
それを聞いて母は驚いたようだった。

「あらまあ、そうなの? まだ学生さんかと思っちゃった。この子がそんな年下の男性が好みだったなんて意外だなって思ってたのよ」
「ひどいなあ、お母さん」
美樹が少し拗ねた声を出した。
「美樹ちゃんだって若く見えるですよ」
ハンスが笑う。
「そうそう。ハンスが異常に若く見えるだけで……」
川本がフォローする。
「そうさ。みんな年より若く見えるんだからいいじゃないか。俺なんかいつも老けて見られてばかりでさ」
飴井がぼやく。

「でも、若い時老けて見える人って、年とったら逆に若く見られるようになるのよ」
母が庇う。
「俺もそう思って耐えていたんですけどね。未だに老けて見られてますよ」
「貫禄があっていいじゃないか」
父がその肩を叩いて慰める。
「まあ、それもそうですけど……。もう諦めました。最も探偵業なんてのは、やはりある程度貫禄があった方が依頼主からすると頼りがいがありそうなんてことも聞きますから、損はしていないのですが……」
飴井は渋々認めた。

「そうですよ。僕なんか、いつも子どもっぽいって言われちゃうんです。ほんと、困ります」
ハンスが不満そうに言う。
「あれ? だっておまえは永遠の子どもだろ?」
川本にからかわれ、ハンスは口を尖らせた。
「違います!」
「でも、ほんと、いい顔しているわよね。娘にはもったいないボーイフレンドだわ」
母の言葉に今度は美樹が文句を言った。
「それはないでしょ? お母さん」
明るい陽光がリビングに射し込み、皆の表情を明るくした。

その時また、玄関チャイムが鳴った。訪ねて来たのはハンスの兄だった。
「初めまして。私はルドルフ・レイ・バウアーです。弟がお世話になっています」
彼は美樹の両親にきちんと日本語で挨拶した。
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いしますね」
母が言った。ルドルフは爽やかに笑って握手した。彼は背が高く、ハンスよりも淡い金髪で緑がかった青い目をしている。タイプが違うので、言われなければ兄弟だと気づく者はいないだろう。
「それで、仕事は何をしているんだね?」
父が訊いた。
「語学講師です」
そう言う彼の表情をじっと見て、父は多少訝しげな表情をした。

「他には?」
ルドルフは微笑を浮かべたが、その問いには答えなかった。
「お父さん、彼はまだ日本語はよくわからないの」
美樹が囁く。
「ふむ。まあいいだろう」
その間に川本がハンスに小声で訊いた。
「仕事のこと、両親には伝えたのか?」
「いいえ」
彼は平然と言った。
「必要ないでしょう?」
そして、飴井に同意を求める。彼は頷いた。確かに国際警察という特殊な仕事をしている彼らにとって、それをむやみに明かすことはできないだろう。が、そんな危険な仕事に彼女を巻き込んでしまったこと、それを両親にも黙っていなければならないのだと言う事実が飴井の心を重くした。

それから30分ほどはルドルフも加わって他愛ない世間話をした。兄にはハンスが通訳し、その場は和やかな雰囲気に包まれていた。はじめのうちは父も警戒するような目で見ていたが、時間が経つにつれ、日本に興味を持ち、予備知識も豊富に持っているらしい彼に好感を持ったようだった。
「どうだね? せっかくこうして縁ができたんだ。温泉にでも行って心行くまで腹を割って話さないか?」
父が提案する。突然の誘いに皆は困惑した。
「腹を割って……って何ですか?」
ハンスが怪訝な顔をした。美樹が説明すると、それを兄に通訳した。
「進や一平もどうだね?」
父が誘ったが、彼らは午後から仕事があると言って丁重に断った。
「それを言うなら、わたしも仕事あるんだけど……」
美樹が言ったが無視された。しかし、意外にもルドルフが合意したので、彼らと美樹、それに両親の5人で熱海に向かうことになった。

「それじゃな。ゆっくりくつろいで来いよ」
川本が言った。
「くつろいでって何ですか?」
ハンスが美樹に訊いた。彼にもまだ、わからない日本語はたくさんあった。知らない言葉が出る度に彼はその意味の説明を求めた。

「進……」
その間に父が飴井を呼び止めて言った。
「本音を言うと、君が娘の婿になってくれたらと願っていた。君なら誠実で信頼できる男だからね」
「ありがとうございます」
そう言って頭を下げたが、彼は顔を上げるときっぱりと言った。
「自分の気持ちは今でも変わっていません。しかし、彼女の気持ちを一番に考えたいんです。彼女の幸せを祈っています。だから、できる限りサポートします。そして、もし奴が彼女を不幸にするようならば、俺は奴を許さないでしょう。でも、今は見守るしかありません。何かあったら、すぐに連絡します」
そう言うと飴井は川本と共に玄関を出た。

「ほんと、いい人ね。彼って……」
二人を見送りながら、母も言った。
「そうだな」
父もぼそりと呟いた。玄関ではまだ美樹がハンスに何か言い、彼は笑顔を向けている。ルドルフはそんな彼らを見つめながらも、外に対しての警戒も怠らない。
「兄貴の方もただ者じゃないな」
父が呟く。プランターに植えられた植物の葉に朝ハンスが撒いた水の滴が煌めいていた。

そして、夕方には熱海に着いた。そこで彼らは父の馴染みの旅館で海の幸を堪能した。通された部屋は純和風で、ドイツ人二人は見る物聞く物すべてを珍しがって説明を求めて来た。
「うーん。難しいなあ。こうしてみると日本のこと訊かれてもぜんぜん答えらんない」
彼らの質問攻めにあって美樹が根を上げた。途中からはほとんど父が相手をし、その知識の深さに舌を巻いた。ルドルフはそんな父と議論がしたいようだったが、間にハンスが介在しているのでなかなかうまく噛み合わないようだった。昔の話や専門用語になるとハンスにもすぐには理解できない言葉がたくさんあり過ぎて追いつかなかったからだ。

「僕、もう疲れた!」
ついにハンスが投げ出した。
「お父さんと話したいなら、ルドも日本語習えばいいじゃないか」
「それには時間が必要だ」
兄が答える。
「とにかく僕はもうやめたからね」
ハンスはそう言うとその場から離れた。が、ルドルフはタブレットを持ちだして父とコミュニケーションを取り続けた。
「言葉が通じなくても案外何とかなるもんなのね」
それを見て母が微笑む。

美樹は持って来たノートパソコンに向かって原稿を書いていた。
「美樹ちゃん、まだお仕事してるですか?」
ハンスが訊いた。
「うん。これ、明日までにやらないとなの」
「僕、つまらないです」
ハンスがぼやく。部屋はゆったりとして趣があった。障子を開くと庭園や池もあった。鯉に餌もやれたし、庭を散策することもできる。床の間には山水図が飾られていた。その掛け軸について父とルドルフが意見を交換していたのだ。

だが、一通り見てしまうとハンスは時間を持て余した。彼は部屋の中を歩き回った。
着せてもらった紺地の浴衣が似合っていた。が、何度も近くを通り掛かるので美樹は気が散り、注意しようと思って振り向いた。すると、彼は菓子に添えられていた紅葉の飾りを持ってにこにこしている。彼女は思わず笑ってしまった。それを見て、すかさずハンスが駆け寄って来て訊いた。
「何で今、笑ったですか?」
「ごめんね。何かそうしてると座敷童子みたいだなって思ったの」
「座敷……何?」
「座敷童子よ。小さい子どもの幽霊なの」
子どもと聞いてハンスが不満そうな顔をした。

「でも、会えるとラッキーなのよ。幸せをくれるの」
「僕も美樹ちゃんに幸せあげるですよ」
そう言って抱きつく彼をそっと離して彼女は言った。
「でも、今は原稿書かせてね」
「えーっ」
ハンスが頬を膨らませて抗議する。

「それじゃあ、ショーでも観に行きましょうか?」
母が言った。
「ショーって?」
「下で歌とか、ダンスとかの催し物を演っているの」
「わあ! 僕見たいです」
彼はすぐに同意した。
「あなた達も行かない?」
話に夢中になっている父に母が声を掛けた。
「ああ。おまえ達は先に行っていなさい。俺はあとからルドルフを連れて行くから……」
父が言うので、彼らは先に宴会場に向かった。

そこではお酒を飲みながら舞台を観覧することができた。二人は水割りとつまみを注文し、ショーを楽しんだ。舞台では踊り子がダンスし、マジシャンがマジックを披露した。それに小さな楽団が生演奏し、舞台の隅にはピアノもあった。

「どう?」
母が訊いた。
「楽しいです。美樹ちゃんも来たらよかったのに……」
「お兄さんもでしょう?」
「そうですね」
「飲み物お代わりする?」
母が訊いた。
「はい。お願いします」
「お酒、強いのね」
「お母さんも強いです」
二人はかなりの量を飲んでいたが、どちらも若干饒舌になったくらいで酔ったようには見えなかった。

「ところで、朝は手加減したでしょう? どうして?」
唐突に母が訊いた。
「朝って?」
暗い照明の下、グラスに揺らめくシルエット。彼は細いグラスを握り締め、躊躇いがちにそれらを飲んだ。そんな彼を見つめていた母が続ける。
「玄関でお父さんとやり合った時」
彼女の肌は滑らかで艶があった。カールした髪を結い、シックなバレッタで留めている。指輪も派手過ぎずに品があった。
「あなたは本気を出さなかった。違う?」
「どうしてそう思うですか?」
仄かに香るオーデコロン。美樹の家の玄関に飾ってあった白い百合を思い出し、彼はふっと遠い眼差しをした。

「あなたがその気なら、一瞬で勝負がついたんじゃない?」
「それはどうでしょう? お父さんも強いです」
ハンスは軽くグラスを揺すりながら言った。
「もちろん、主人も本気を出してはいない。でも、あなたには有利だった筈……」
「よくわかりません。でも、何となく美樹に関係がある人だと僕にはわかったから……」
彼がグラスを置くと、周囲に漂っていたもの達の気配が、すっと闇に溶け込んで消えた。
「あなた、随分大きな荷物をしょっているのね」
「荷物?」
「しがらみ……」
ハンスにはそれがどういう意味なのか理解できなかった。しかし彼はあえてその意味を訊こうともしなかった。

「きっとあなたも境界を越えて来たのね。娘もそうよ。だから引き合うのかしら? 見えないものを見てしまう。そんな悲しみを癒すために……」
「僕は彼女が欲しいだけ……。だけど、お父さんが許してくれなければ……」
グラスに沈む琥珀色の液体を見つめて彼は言った。
「難しい問題ね。でも希望がない訳じゃない」
「僕が言わなければ……どうにかなったですか? あなた方を殺すなんて……」
「主人も同じこと言ったわよ。わたしと結婚した時に……。一緒にさせてくれなければ親も兄弟も容赦しないって……。もっとも、わたしは直接聞いた訳ではないんだけど……」
「本当に?」
彼女は微笑して頷くと空いたグラスにウイスキーを注いだ。
「だったら、僕にもまだチャンスがあるという訳だ」
彼はうれしそうに笑うと注いでもらったグラスに唇を寄せた。

舞台ではカラオケタイムが始まっていた。申し込んだ順に客に生演奏付きで歌わせるのだ。
「歌は得意?」
母が訊いた。
「歌、唄います」
ハンスが答える。
「じゃあ、申し込んじゃおうか。何の曲にする?」
「僕は……そうですね。どうせならラブソングが……」
そう言い掛けて彼はいきなり立ち上がると舞台に向けて走り出した。

それからひらりと跳んで舞台に上がるとピアノを指差してその前に座った。舞台ではまだ中年の男がマイクを持って唄っている。演奏の途中なのだ。が、構わずハンスはピアノを弾き始めた。それはハンスにとって初めて聞いた曲だった。が、その演歌調のメロディーが興味深く思えたのだ。すぐにそれを自分でも弾いてみたくなった彼はすかさず実行した。そこにピアノがあったから……。途中から楽団の演奏が止まり、ハンスの弾くピアノの音だけに変わっていたが、マイクを持った男は構わず唄い続けた。途中で伴奏が変わったことなどまるで気がついていないかのように……。実際、それを観ていた客達も違和感なく溶け込んで歌い手に声援を送った。
歌が終わるとハンスは後奏をジャズっぽくアレンジした。演奏が終わると喝采が起きた。

それは最初から組み込まれていた演出であったかのようだった。
「素晴らしい! いや、本当に感服しました」
楽団の指揮者が近づいて来て言った。
「よろしければ一杯奢らせてください」
「ありがと」
ハンスはグラスを受け取るとぐいと飲み干した。その時、舞台で客が騒いだ。
「何やってんだよ? 次は俺の番だぞ。早く歌わせろ!」
「あの人、歌いたいって……」
鍵盤に手を掛けてハンスが言った。

「最初のとこだけ演奏してくれない? そしたら僕できるから……」
「最初のとこだけって……それじゃ、さっきの曲も……」
「初めて聞いた。でも、大丈夫。僕弾けるから……」
「そうだそうだ! 早く始めろ! そいつに弾かせればいい!」
客席からも声が掛かった。そうして楽団の演奏が始まった。天井を見やるときらきらした反射ボールが光って見えた。
「あはは。何だかすごくいい気分だ」
ハンスは楽団の音にピアノを滑り込ませるとすぐにアレンジを加えて演奏した。途中からまた楽団の演奏が止まり、ピアノのソロになった。歌が音程を外したが、すぐにそれをフォローして歌声に重ね、まるでプロの歌手が歌っているかのように響かせた。マイクを持った男は相当酔っていたが、周囲の盛り上がりに満足し、絶頂感に浸っていた。

「何という奇跡だろう」
「彼は何者なんだろう?」
演奏が終わるとまた割れんばかりの拍手が起こった。
「顔は知らないけど、きっと高名なピアニストに違いないよ」
誰かが言った。
「ピアニスト……」
ピアノの前でハンスが呟く。
「そうだ。僕は……」
左腕の神経が鋭く脈を打った。彼は徐に立ち上がると舞台を降りた。誰もが彼に触れたがり、握手を求めた。しかし彼はそれに応じなかった。

「すみません。僕はプロじゃありませんので……」
そう言って逃れようとした。
「Warte(待って)! 待ってください! あなたは……」
様々な言葉が飛び交う喧騒の中、彼の名を呼ぶ声が聞こえた。それは男の声だった。
「誰?」
彼が振り向く。見ると人の波を掻き分けて近づいて来る者がいた。年配の男だった。
「ああ、やっぱりそうだ。すぐにわかりました。あのピアノの音色はあなただと……」
前髪に白髪が混じっていた。その男には見覚えがあった。確か何処かの音楽大学の教授をしていると言っていた。